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「こころ」その作品に触れたとき 三年B組 E. Uda
なんとなく立ち寄った書店で、何となく手にとった本。
私とこの作品との出会いは、そんなところです。
ただ、「これを読んでみたい」という気持ちを起こしたのは、
「こころ」という題名であったこと、またそれが平仮名で
表されていたことへの好奇心の働きがあったからだと思います。
夏目漱石。
彼の作品は、「坊ちゃん」と「吾輩は猫である」
(これは途中でページをとじたままだけど)
この二つを読んだことがありました。
でも、私は宮沢賢治が大好きで、彼の作品ばかり手を
伸ばしていたので、夏目文学とは随分ご無沙汰していました。
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「こころ」の”先生”という主人公は、過去に、親友を裏切って、恋人を得ました。
ところが、親友が自殺してしまい、罪悪感を背負って生きていたのです。
この作品の前半、”先生”は鎌倉の海岸で出会った学生の眼から間接的に描かれています。
後半は、学生に対して「遺書」という形で過去の悲劇を”先生”自身による告白であり、
この対照的な表現に、どことなく新鮮さを覚えました。
「遺書という形の告白」
そう、先生は最後、自ら死を選択したのです。
私はこの終わり方に納得することはできません。
親友を裏切ってしまった、そのことが原因で親友が自殺した、だから自分も自殺する、
そんな事をして何になるのか。
遺書の中で、先生は最後まで妻のことを心配して気遣っていました。
でも、どうして妻の気持ちを考えてやらないのだろうと思いました。
だって先生が死んでしまったら妻は悲しくて仕方ないはずです。
少なくとも私が同じ立場なら、そう思うからです。
妻は何も知らないのです。だから私だったら自殺なんてしません。
死んでしまった親友の分まで、命ある限り妻を守り抜くのです。
一日一日を、そして、命を大事に、その罪を少しでも償うのです。
それが先生の本当のやるべき事だったと思います。 |
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今の時代、いじめを苦にして自殺してしまう中、高校生が増えています。
私は先生の自殺が、そんなニュースを聞いたときの悲しみと重なり、
とても切ない気持ちになりました。
だからこそ、死んではいけなかった、死ぬべきではなかったと思ったのでしょう。
自殺という最後を認めたくなかったのでしょう。
私は「こころ」を何度も読み返しました。
読むたびに、その小説のもつ意味の深さに引き込まれ、初めはあんなに強く「死」を
否定していたのに、本当はどうすることが一番正しかったのだろうと、
考えを見失ってしまいました。とにかく、もう一度読んでみよう、もっと考えてみよう、
それがその時の私の精一杯の答でした。
先生の選んだ道がどうだったかは、とりあえず問題から外してみると、
また違った面が見えてきます。きっとここが夏目文学の面白い点であり、
よい点なのでしょう。そんな気がします。
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別の面というか、私の気にかかったことは、小説の中で、あまり気にかけることのない
細かい部分まで、漱石はしっかりと描き上げていることです。
先生と親友の下宿先の家屋の間取りなどは、ごく普通の家と変わらないように思います。
先生と親友の部屋の境はふすま一枚であること。
奥さんのいる茶の間が中心であること。きわめつけは、もともとそこは軍人の夫を亡くした
奥さんの家、軍人の遺族の家であることです。
奥さんには一人娘があり、そこへ先生と親友が住み込めば、
三角関係が生じるのは無理もないでしょう。後で著者紹介を読んで知ったのですが、
漱石は若い頃、建築家になろうとしていたそうです。
あと、印象に残ったところは、先生は月に一度親友の墓参りをしていましたが、
その墓は、雑司ヶ谷霊園にありました。そして漱石自身の墓も、そこにあるそうです。
著者と登場人物の関係の深さを改めて感じました。
小説の後半で、先生は遺書に
「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。
私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です。」
と書きました。
初めに現れた死を選ぶ事への疑問が、なんだかはね返された気分でした。
明治をとらえたこの作品に触れて、エゴイズムの追求と
批判を目の当たりにしました。
そして、人の心について、愛について、命の大切さ、
重さを深く考えさせられました。
今を生きる私にとって、どんな苦しいことがあっても、
自殺なんて選ぶことはできません。
周りの人を、そして自分を大切にしたいと思うから。
真実と向き合う心をもって、社会に立ち向かっていきたい。
自分の心をゆっくりと、時間をかけて育てていこうと思います。
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