私のアメリカ体験記
 
カタカナ英語とカリフォルニアの

Part 8  

       打開策とペンだこ  


     厳しい校則を持つ大学ですが、唯一の救いは、落第点を
    取っても、次の学期で補えば許してもらえるという制度です。

    私はこの制度に救われました。そして、それまでの行き当
    たりばったりを反省し、窮地を切り抜けるための作戦を練り
    ました。


 
   ・数学などの英語の量の少ない教科、点が取りやすい
     教科を選択する。

    ・読み書き共に、日本語で考えていてはスピードが追い  
     つかないので、英語のままで考える。

    ・教科書を要約し、ノートにまとめる。


    ・講義の内容を、教科書で重点的にマークする。


      こう書き出せば当たり前のことばかりですが、当時の
     私は慎重に、それなりに考えたことなのです。

      次の学期にはタイピングと、英語がよくわからない人た
     ちのための Composition (Writing)、そしてなぜか相性
     が良かった会計学の基礎後半)を取りました。結果は

     Composition A, 会計学 A, タイピング B

      内容にふれずに、結果だけをいえばAAB と見事な成績。
     まるで優等生です。ともかく、作戦は成功し、ピンチを脱し
     ました。

      この頃から「教科書を要約し、ノートにまとめる」ことが
     私の勉強方法の基本となりました。連日、読んでは書き、
     書いては読み、覚える。

      書いた量もさながら、力一杯書いたので、右手中指の第
    1関節付近にマメができました。無理をして続けていたら、
     炎症を起こして腫れあがり、一時は親指ほどにふくれたこ
     ともありました。それはやがて、硬いペンだことなり、自分
     にとっては勲章のような気がして、秘かな自慢でした。



    ・タイピングについて

      課題のレポートは、手書きでは受け付けてくれません。タイ    
     プしなければならないのです。そのため、タイピングの授業が
     用意されており、それを選択しました。「速く、正確に」が成績
     評価の基準であることを知ったからです。

 

    ・Composition(Writing)について

      英語を第2外国語とする人たちのための、やさしい書き方
     の授業。論文の組立方、アウトラインの書き方などから始ま
     るレベルの低いもの。20人ほどが受講していました。
  
.

 
       大量の読み書きを続けたところ、私の英語の質は急    
      速に、また予想外の形で変化し始めました。
 

      書ける

       当然の変化は、教科書のような文体で自分の考えを
      書けるようになったこと。これは予想していたことであり、
      期待していたことでもありました。


      聞こえる・話せる!!
 
       驚いたことは、講義が聞き取れるようになり、ジョーク
      もわかる場合が増えたことです。そして、これはまったく
      予想外でしたが、ほとんど日本語を話す感覚で、英語を
      話せるようになったことです。

       英語の国アメリカで暮らしているので、日々の生活が
      「英会話」そのものであったはずです。けれども、私がい
      わゆる「英会話」として表現を暗記し、声に出して練習し
      たのは渡米直後の2、3ヶ月だけです。

       それはホテル学校のビザが切れる前に TOEFL
      得点を上げることが、私がアメリカで生きていくために
      残された唯一の方法であり、そのために読むことに追
      われ、話す練習をする余裕がなかったのです。

       入学してからも読み書きに追われ続け、人と話すの
      は日に数分であったと思います。それが、気がつい
      てみると結構、話せるようになったのですから、読み書
      きの効果は計り知れないものがあるようです。
 

         ※ 私の場合の「大量の読み書き」とは1学期(約3ヶ月)
            に次のような量でした。


         読み  教科書を 1,000ページ前後。
               大学生としては普通の量。

         書き  学ノートに 300〜500枚程度(片面のみ)
              普通の学生よりは多い。
 
. 


     ともかく卒業


      ロスは雨が少なく、カラッとした穏やかな気候に恵まれて
     います。実際には、スモッグにかすむ日の方が多かったの
     ですが、雨上がりのさわやかな青空をよく覚えています。

      芝生や樹木の多い、ゆったりとしたキャンパスはいつも
     のどか。

      昼下がり。
     カリフォルニアの日差しを浴びて、芝生に横になる学生。
     木陰で本を読む学生。
     子供を連れた学生夫婦が、交代で子守りをしている
     アメリカならではの光景。

      私はいつも懸命でしたが、明るく楽しく振るまっていまし
     た。そして自分一人で、Our day will come.と、大した根
     拠もなく思っていました。

      やがて、ようやく、そしてやっとのことで CSULA を卒業。
     渡米の目的を、ひとまず遂げました。

                     


     マネができてない!!


       大学を卒業し、晴れて社会人となり、少なからず自信を
      持って暮らしていた頃のことです。

      近所に住む小学生の Jason が、
      「どうしてそんな風に、もごもごしゃべるんだ?」と、真顔
      で私にたずねるのです。

      まったく意味不明の質問に戸惑いました。私ははっきり、
      明瞭に話していたからです。Jasonはあざけるのでもなく、
      私の話し方のマネだと、唇を突き出し、もごもごと言って見
      せました。

       その夜、自分の発音を録音して、ガクゼンとしながら納
      得しました。どうしてこれで通じていたのか、とあきれるほ
      どのカタカナ発音だったのです。私は発音もリスニングも、
      少なからず上達したと、錯覚していただけでした。

       何年もネイティブのきれいな英語を聞きながら、意味が
      理解できるだけで、正しく聞き取れていなかった。そっくり
      マネしていたつもりが、ただ通じるだけのカタカナ発音であ
      った。

       これはゆゆしきことです。
      このままでは生きて祖国の土は踏めない。ほんの数日
      だったとは思いますが、そういう心境になりました。言葉は
      音だと確信しながら、基本的な、最も重要な部分では相変
      わらず、振りだし付近をうろついていた。 それは直面したく
      ない現実でした。

                


       それから何年か経ち、

       「カタカナ発音になる原因と矯正方法」と、
       「スペルと発音の関連性としくみ」は、

       何度も手を加え、
       納得できる形にまとめることができました。

       そして、アメリカに来てちょうど10年目の8月に、長女を
       身ごもった妻と、「子供は日本人として育てよう」と帰国。
       現在に至っています。


        このようにざっと振り返ってみても、私がアメリカで暮らし
       た10年間は、ある意味ではカタカナ英語との格闘であっ
       たように思います。


      今も変わらぬこと


       あれからずいぶん時が流れ、日本で生まれた長女はも
      う、中学三年生。私の中学時代とはまったく異なる社会環
      境の中で、独自のライフスタイルを築きつつあります。

       10年経つと実に多くの物事が変化し、20年では、世の
      中は一変します。けれども、なぜかカタカナ英語はかたく
      なに受け継がれています。



      つい先日、

      私が帰国した19838月、ロスに行き、10
     前の私と同じ様な体験した、という方からメールが     
     届きました。

     「いきなり英語が通じない、の洗礼を受け、ヶ月
     間、オシでつんぼの世界をさまようはめに・・・    

     さっぱり聞き取れないし、
     発音のせいでほとんど通じない・・・」

 

                      


        かつて、わが国では、英語を日本語の音で学んだ
       時代があり、英語は「通じない・聞こえない・話せな
       い」ものと、広く一般にとらえられていた。
 
       「使える英語」を求める声は国民的スローガンとして
       毎年のように唱えられたが、発音に対する誤ったアプ
       ローチが是正されることはなく、「英語が通じない」洗礼
       を受ける人は後を絶たなかった。

 
        英語史の1ページに、こう記される日が来ることを
       私は夢見ているのかも知れません。






私のアメリカ体験記」 
   
July 21, 1998


 
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